信仰とオタク趣味について語り合える仲間が他にもいてくれて、本当にうれしく思います!素晴らしい物語やデボーション(日々の黙想)、さらにはグラフィックノベルまで出版しているグループの一つが Mythos & Inkです。彼らはご親切にも、近日発売のデボーション集 Thy Geekdom Come – Vol. 2の一章を紹介してほしいと声をかけてくれました。第1巻をまだ読んだことがない方へ。第1巻は私の リソースページ でもおすすめしている本なので、ぜひ チェックしてみてください!
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前置きはこれくらいにして、さっそく Final Fantasy VIIIを題材にしたこの素晴らしい一編を読んでいきましょう!
Final Fantasy VIIIと「私たちはひとりではない」という約束
レスター・リャオ 著
「ここで待ってる。ここに来れば、俺に会える。約束だ」
―スコール・レオンハート、 Final Fantasy VIII
読む: ヨシュア記1章1~9節
思い巡らす: ロールプレイングゲーム Final Fantasy VIIIにおいて、スコール・レオンハートは一匹狼ですが、その旅路は友情と世界の救いへとつながっていきます。しかし、彼の生い立ちは暗いものです。孤児院で育ち、そこでさえ、身近にいた唯一の姉のような存在を失います。ゲームを通して、プレイヤーは雨の中ひとりで泣き、人生をひとりで生き抜こうと決意するスコールの回想シーンを目にします。
しかし物語が進むにつれ、スコールは宇宙規模の争いに巻き込まれ、助けを必要とします。ゼル、セルフィ、キスティスは電撃拷問室から彼を救い出し、アーヴァインは失われた幼少期の記憶を取り戻す手助けをし、バラムガーデン(彼が訓練を受けた傭兵集団)全体がガルバディア軍との戦いで彼を支えます。正気に返った瞬間、彼は自分ひとりで何とかできるというのは幻想だと気づくのです。
この混乱のただ中で、スコールと手を組むレジスタンスの一員リノアが、彼の救いの主な担い手となります。スコールが他者に対する自分のためらいや、自立へと駆り立てる拒絶への恐れを理解しようともがく中、リノアは、誰かに頼ることは弱さではなく強さなのだと彼に思い出させます。
スコールの自立への願望は、私にもなじみのあるものです。私は人混みの中で目立ちたいし、夢を追いかけたいし、社会的な義務の束縛から自由になりたいと思います。それが、混沌とした世界の中で私が大切にするようになったものです。私は自分自身を神のようにして頼ります。けれども満たされないまま残され、神の道こそ命を与えるものだと思い出すのです。互いに支え合うことが、人生を満たす関係を育むのです。
スコールは見捨てられた影の中で生きていて、誰かに心を寄せることを恐れています。彼はC.S.ルイスが 『四つの愛』の中で警告している「壊れることも、入り込むことも、贖われることもない」心へとまっしぐらに向かっています。ルイスは、痛みや失望を恐れて他者を人生に迎え入れることを拒み続けるなら、私たちの心は冷え、やがて石のように固まってしまうと書いています。
バラムガーデンでのパーティーの夜、リノアと話すスコールは「明日いなくなるような友達はいらない」と言います。スコールは見捨てられることを恐れて、人との間に壁を築くのです。彼の意識を時間を越えて送り、過去を変えることを彼に託すエルオーネという女性にも、彼は「やめてくれ…俺を当てにしないでくれ」と言います。かたくなな心のせいで、彼女こそ幼い頃に失った姉のような存在だということに気づけないのです。
しかし、完全な愛は恐れをとり除きます(ヨハネの第一の手紙4章18節)。キリストの受肉は、スコールと同じように私が心に抱いている「自分はひとりぼっちになる」という偽りと戦ってくれるのです。
いちばん苦しいとき、神は私を見捨てるのでしょうか?妻を亡くした後、C.S.ルイスは 『悲しみをみつめて』の中でこの問いと格闘しました。彼は、神は気にかけてくださっているのだろうかと考えました。最も切羽詰まったときに、神に目の前で扉をぴしゃりと閉められたように感じたのです。エルオーネを失ったスコールも、同じように見捨てられ、まったくの孤独を感じます。それは喪失の痛みに、本来すべてを正してくれるはずの存在の無関心なまなざしが重なった痛みです。
神は私たちを、この場所を嘆きと驚きのために用いるよう招いておられます。イエスは、ご自身もまたひとりであったことを私に思い出させてくださいます。その神聖な痛みのゆえに、イエスは涙があふれる私のそばに座ってくださいます。イエスは距離を置いた傍観者ではなく、ご自身も喪失を感じる方です。そしてそこで、私は慰めを見いだし始めます。すべての答えを知っているわけではなくても、創造主が気にかけてくださることは確かに知っています。
十字架へと向かう神は、扉をぴしゃりと閉める神ではありません(ローマ人への手紙8章32節参照)。私の感情が何と言おうと神はそこにおられ、私に会うために最初の一歩を踏み出してくださいました。この種の愛はリノアの中にも働いています。彼女はスコールに突っぱねられても、自分から心を開き、彼を気にかけるのです。やがて、彼の石の心は肉の心へと変えられていきます。
ゲームの中で、仲間たちは時間の中で迷子になるかもしれないという事態に直面し、命の危険にさらされます。そのときスコールはリノアに、自分が彼女のそばにいると告げるのです。これこそ愛のなせるわざです。愛は、私たちがひとりではないことを思い出させてくれます。
便利さや最小限の義務がもてはやされる文化の中にあっても、愛は私たちを互いにこう約束するよう駆り立てます。「そばにいるよ。あなたを愛する。あなたを見捨てない」。私たちの約束は犠牲の行いとしてあふれ出し、自分の都合よりも相手の必要を優先させるのです。
これこそまさに、神が私たちのためにしてくださることです。神の約束は、厳格な義務に基づくものではありません。むしろ神は愛ゆえに約束してくださり、その愛によって私たちは変えられます。リノアの愛がスコールを変えるように、神の愛が私たちを愛せる者にしてくださるのです。
ヨシュア記1章1~9節で、イスラエルの民はモーセを失い、ヨルダン川を渡る準備をしています。ヨシュアは指揮を引き継ぎ、師のいないまま民を異国の地へ導くという途方もない務めに直面します。そのとき、神は約束をなさいます。人生が乗り越えられないように思え、未来が不確かなとき、神はヨシュアに、彼がひとりではないことを思い出させるのです。神の言葉は、ヨシュアの(そして私の)不安にまっすぐ語りかけます。恐れてはならない。おののいてはならない。神は私の心をご存じです。そして神は、私に導きの言葉と変わらない臨在が必要であることを知っておられるのです。
スコールたちにとって、時間のゆがみや宇宙での戦いといった幻想的な要素は、彼らが直面する不確かさをいっそう深めます。しかし、スコールのリノアへの約束は嵐の中の錨です。それは、何が起ころうとも これだけは 真実であり続けると告げているのです。
同じように、神の約束は私たちを支える土台となります。共同体を通して自分を神と他者に結びつけることで、私は試練の中でも自分を支えてくれる人生の枠組みを築きます。人生の痛みや困難を前にしても共におられるという神の約束は、キリストのからだとなる友の共同体の中に映し出されています。私がつまずくとき、彼らがそばにいてくれることを私は知っています。
キリストは究極の約束であり、変わることのない愛の宣言であり、インマヌエル、すなわち「神われらと共にいます」というお方です。神の約束は私の人生を永遠に変えました。スコールのように心の痛みを隠したくなるとき、愛が私の魂に入り込み、その関係が私を新しく造られた者にしてくれます。そしてもし私がさまよい流されることがあっても、それが宇宙空間であれ「地獄に一番近い島」であれ、その約束は永遠に立ち続けるのです。
鍵となる聖句
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。19 わたしたちが愛し合うのは、
神がまずわたしたちを愛して下さったからである」―ヨハネの第一の手紙4章18~19節(口語訳)
学びのための質問
1. 疑ったり問いかけたりするとき、あなたは安心していられますか?それとも、何か悪いことをしてしまったように感じますか?問いを持つことが、実はキリストとの関係や、その約束への理解を深めるのはなぜでしょうか?
以前の私は、疑ったり問いかけたりすることに居心地の悪さを感じていました。情報を与えてくれる権威ある人より自分のほうがよく知っている、などと思いたくなかったからです。自分より経験のある人と違う考えを持てるほど、自分は賢くも博識でもないと思っていました。でも年月を重ねる中で、当たり前の真理を学ばなければなりませんでした。それは、誰ひとりとしてすべてを知っている人はいないということです。ある分野でどれほど技術や経験があっても、自分より経験の浅い人から学べないわけではありません。
問いかけることは、神をより深く理解する道をふさいでいる雑草や枝を取り除く助けになります。自分の疑いに向き合い、それをキリストにある他の信仰者のもとへ持っていったり、聖書の中に答えを探したりするとき、答えが見つかっても見つからなくても、神の約束に慰めを見いだすことができます。私たちが抱く問いのほとんどは、すでに答えが与えられていると思います。ですから、たとえその答えが、私たちにとって居心地の悪いかたちで自分自身を見つめ直させるものであっても、神のみことばの中に答えを探せばよいのです。
2. あなたは他の人に約束をするのを控えますか?それはなぜですか?
状況によります。守れない約束なら、最初からしないほうがいいと思っています。以前は、相手を助けたい、せめて努力はしたいという思いから、「ノー」と言うのをためらっていました。でも今は、できないとわかっているときや、すでに抱えている優先事項を複雑にしてしまうときは、はっきり断るようにしています。それで相手が傷ついたり、なぜ約束できないのか理解してもらえなかったりしても、それは私にはどうにもできないことです。
特に個人的な事情の場合は、自分が話すと決めた範囲で、今はその約束を守れないことを説明します。ただ、家族のようにごく身近な大切な人であれば、たとえば職場の同僚やそれほど親しくない人よりも、できる限り約束を守ろうと努めます。
3. あなたが神の約束を最も疑うのはどんなときですか?その疑いは、スコールのように恐れの表れでしょうか?共同体を見いだしていくスコールの旅路は、あなたが神へのより大きな信頼を築くうえで、どのような励ましとなるでしょうか?
多くの人と同じように、私が神の約束を最も疑うのは、人生がまったく予想外の方向へ進んだときだと思います。問題を防ぐためにどれだけ先を見越していても、計画どおりにいかないとき、人生とはそういうものだと受け止めて対処し、神に頼るしかありません。私の場合、それは恐れというより、思い描いていたのとは違う予想外の状況や道へと人生が導いていく、ということだと思います。たとえば、思っていたより早く祖母を亡くしたこと、勤めていたポジションが突然なくなり新しい仕事を探さなければならなかったこと、車が故障して、とても混み合う繁華街の真ん中でエンジンがかからなくなったこと、そのほか人生で起きたさまざまな困難です。
スコールの旅路に私が共感したのは、友人や家族、職場の仲間、教会のグループなど、周りに共同体があることがどれほど大切かを知っているからです。私は人生のさまざまな時期に友人を失ってきました。しばらくの間だけ一緒にいた人もいれば、何年も付き合った人もいますが、そうした関係を失うのはいつもつらいものでした。私はグループをまとめ、みんなを笑顔にし、仲良くやっていけるように気を配るタイプです。でも時には、人はさまざまな理由で離れていくもので、それは私にはどうすることもできません。
だからこそ、私はスコールを理解できました。彼は身近な人を失い、その痛みを胸の内にしまい込んでいましたが、リノアや仲間たちが彼を支えて乗り越えさせたのです。神は私の人生にも人々を、特に妻を置いてくださり、その痛みを乗り越えられるよう助けてくださいました。だから私は、彼が経験していることがわかるのです。 『Thy Geekdom Come (Vol. 2): 42 Science Fiction-Inspired Devotionals』は 、 Amazon または.

